◆デジカメの強い味方
今回の旅から登場した新兵器、その名は「モバイル太陽電池」。基本的に太陽光さえあれば、世界のどんなところでも単3(4)電池を2本、充電できる。説明書には使用温度0〜45度とあったので、厳冬のモンゴルで使用できるか心配だったが、氷点下でも無事に使えた。現地には本体1つと電池を2セット持参し。電池1セットをデジカメに使用、もう1セットは充電にあてた。ゼロの状態からフル充電すると時間がかかるので、デジカメの使用・未使用にかかわらず毎日充電した。このおかげで充電を待つストレスもなく、安心してデジカメを使うことができたのである。

モンゴルの子供達


今回の移動距離は約4000キロ。モンゴルの西部を22日かけて往復した。かなり充実した旅で、久々にモンゴリアン・チョップを喰らったようなカルチャーショックも受けた。

西部を訪れたのが初めてということもあったが、何にそんなにショックを受けただろうか。撮影してきた写真を見ると、それが如実に現れている。

ゴビともフブスグルとも違う広大な風景。カザフ族に出逢い、同一国内にもかかわらず、宗教、文化、言葉が大きく違うこと。こうしたことに、僕はショックを受けていた。

でも、全体を通して一番多かった写真…それは子供の写真である。子供の写真は、銀塩カメラしか持って行かなかった時もたくさん撮ってきたが、今回は特に多く、今までよりも自然な表情を写せたと思う。

僕は遊牧民のゲルを訪れると、子供達と遊んでいることが多い。モンゴル語を知らなかった僕に、親切に一つ一つ言葉を教えてくれたのは子供達だし、馬の乗り方を教えてくれたのも子供達だった。

もともと子供は好きなのだが、このところ子供に対する接し方が少し変わってきたような気がする。それは、昨年、日本で子供達を撮影する機会が多かったせいではないかと思う。

僕が子供を撮る時にいつも気をつけていたのは、子供達との接し方や距離、そして表情である。接し方も距離も、人物撮影における重要なテクニック。撮る側、撮られる側の気持ちが合ったときに、初めて良い表情をしてもらえるのだ。昨年1年間、子供達を撮影したことで、そのテクニックが身についたのだろう。

そこで、今回は人物写真、特に子供の撮り方について紹介しようと思う。


[写真クリックで拡大]
子供の何気ない瞬間を撮る。「ハイ・チーズ!」で撮った写真よりも、こういう瞬間のほうが、いつ、どんな時に撮影したか、撮影者の記憶に残りやすい。作られた笑顔ばかりの写真では見る人も飽きてしまうので、たまにこんな写真を撮ると新鮮で良い。また、前景や背景に景色や人物などを“適切な大きさ”で入れると、その場の雰囲気や距離感などが出る。

[写真クリックで拡大]
子供達が、おやつ代わりに出されたバンシ(モンゴル風の蒸し餃子)をむさぼるように食べていた。その食べっぷりを写真に納めようと、そっとデジカメを出したのだが、電源を入れたときに「ピコピコッ」という音がして、結局は記念写真になってしまった。さりげない表情を撮りたい場合は、音の設定をオフにしておいたほうが良いようだ。

[写真クリックで拡大]
柵に寄りかかる少年、ムンフバット(6歳)。デジカメで撮影した写真をちょこっと見せたら、デジカメの虜になってしまった。暇さえあれば、「ねぇ、ちっちゃいカメラはどこ? ちっちゃいカメラで僕を撮ってよ」と言って、僕につきまとっていた。子供がこちらに興味を持つようにすることも、撮影テクニックの一つである。

[写真クリックで拡大]
お正月の挨拶まわりに疲れて眠ってしまった少年。ツァガーン・サル(モンゴルのお正月)になると、モンゴル人は家族総出で親戚の家をまわる。一日に何件も訪ねるうえ、会話にもついていけないのだから、小さな子にとって「正月」は退屈な行事なのかもしれない。暗い室内をフラッシュなしで撮影しようとすると、カメラは明るめに写そうとするので、露出をマイナス補正して撮影した。

[写真クリックで拡大]
木をかじる少年に「なんだ、君はヤギか?」と聞くと、「違う、人間だよっ!」と言い返してきた。言葉でもアクションでもいいから、撮影前に軽くコミュニケーションをとるのが、僕゛子供を撮影する時のスタイルだ。「ねぇ、写真撮るからこっち向いてよ」だけでは、子供の素直な表情は撮影できない。構図や露出よりも、僕が大切にしていることである。

[写真クリックで拡大]
モンゴルの最西にあるバヤンウルギー県。この県にはカザフ族が暮らしている。いわゆるモンゴルとは違って、言葉はカザフ語、宗教はイスラム教、食べる肉は馬肉中心である。鷹匠をしている家族のところに2泊させてもらったが、まるで違う国に来たみたいだった。日が沈むと、ランタンの灯りがカザフ族の兄弟を照らした。デジカメの「ブレるマーク」が点灯していたが、雰囲気が良かったのでかまわず撮影。わずかな灯りで撮影する場合は、フルオート撮影が無難である。

[写真クリックで拡大]
家の陰からこちらを見つめるカザフ族の少年。目がとても綺麗だった。「目は口ほどにモノを言う」と言うが、まさにそんな感じの生きた目をしていた。この写真を撮影した時、少年の心はまだ僕に対して開かれていなかった。でも、これは心が開かれていない時だったからこそ撮れた写真。一期一会で撮る写真は、もはやデジカメも銀塩も関係ない。重たい雰囲気にしたかったので、暗い背景を選び、露出をマイナス補正して撮影した。

[写真クリックで拡大]
バットスフと街へ向かう途中、1頭の馬に乗った遊牧民の親子が道端で手を振っていた。「どうしたのですか?」と尋ねると、「この子を街まで乗せていってくれないか」と言われた。我が子を通りすがりの車に預けるなんて、いささかビックリしたが、「いいですよ」と快諾し、この子を車に乗せた。持ちつ持たれつの人間関係が、モンゴルには存在している。不安だったのか、この少年はまったく心を開いてくれなかった。

[写真クリックで拡大]
グルグル巻きの布にくるまれた赤ちゃん。なんだか、ずいぶんとカラダの大きな赤ちゃんだった。初めて見たときに、「でっかいなぁ」と思わず日本語で言ってしまった。ゲルの中の暗い雰囲気を出したかったので、露出をマイナス補正して撮影。ライティングが良かったせいか、赤ちゃんが暗い中から浮かび上がるように撮ることができた。

[写真クリックで拡大]
妹が三編みするのを手伝う姉。実はこの姉妹、運転手バットスフの子供達である(妹は「モンゴリアン・チョップV」にも出ている)。カメラの高さを妹の位置に合わせ、背景に姉が入るようなポジションを選んで撮影した。主役の妹を大きく、準主役の姉を小さく写すことによって、僕がイメージしたその場の雰囲気が再現できた。

[写真クリックで拡大]
僕が子供を撮る時、特に気をつけていることがある。それはカメラの高さだ。大人の視線から見下ろして撮った写真と、子供の目線で撮影した写真では、見え方も雰囲気も全然違う。僕は子供と対等に接したいので、基本的に子供の目線で撮影するように心がけているが、子供が大人を見上げる視線が良い場合は、そうすることもある。大切なのは、いろいろな角度で子供を見てあげることだと思う。

[写真クリックで拡大]
田舎の街のアパートに住む少女。僕が写真を撮ろうとしたら、「待って!」と言って、飾ってあった人形を抱き上げた。一人っ子の少女が最も大切にしている、西洋風の人形。頬をすり寄せる姿が、とても愛らしかった。サイドから窓明かりが入ってきて、顔が暗く写りやすい難しいライティングだったが、カメラのオート撮影で難なく撮れた。困ったときには、フルオート撮影が良い。
「モンゴリアン・チョップ」「デジタリアン・チョップ」と、1年半ほど連載してきたが、残念ながら、これが最終回となってしまった。読者の皆さんに、モンゴルやデジカメの素晴らしさをどれだけ伝えられたか不安もあるが、少なくとも僕は毎週、楽しみながら原稿を書かせてもらった。

「モンゴリアン・チョップ」では、僕の旅のすべてを書いた。今読み返してみると、まるで裸を見られているようで、なんだか照れてしまう。「デジタリアン・チョップ」は、最初は妙にぎこちなかったが、デジタル化途上の自分が最後には読者に撮り方を教えてしまうのだから、恐れ多い企画であったと言えるだろう。

旅にも出逢いや別れは必ずある。出逢いは突然でも嬉しいことだが、突然の別れはあまりに悲しすぎる。旅先での別れ際、僕は何度となく涙を流してきた。でも、そんな時は「これは新たな出逢いへのステップなんだ」と、いつも自分に言い聞かせてきた。

“別れ”はいつか来るもの。それが、たまたま今だったというだけである。

デジカメの話もモンゴルの話も、まだまだ書き足りない感じで、連載終了は残念だが、また別の企画で皆さんにお会いできる予定である。編集者Hさんが何を企んでいるのか、やや不安もあるが、僕も楽しみにしている。

今までご覧いただき、本当に本当にありがとうございました。


清水哲朗