●モンゴル人の習慣
街中でモンゴル人に足を踏まれたときの話。「痛っ」と思った瞬間、その人は僕に手を差し出した。何だろうと思ったが、勢いで握手してしまった。あとで知人のモンゴル人に聞いてみたところ、それは「ごめんなさい」という意味で、踏まれたほうも「どういたしまして」と握手するのが礼儀なのだそうだ。そうすることによって、お互いに嫌な思いをしないで済むらしい。この素晴らしい習慣は、今ではすっかり僕の体に染みついている。電車内でのトラブルが多くなった日本でも、このような習慣があるとだいぶ違うのではなかろうか。





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大きな湖なのに、こんなにも透明度が高い。砂利の大きさもそろっていて、なんとも気持ち良かった。














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湖と沼に挟まれて半島状になった場所にゲルが1つあった。モンゴル人の美意識だろうか。羨ましいところに建てるものだと感心してしまう。














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前日にボートで周遊した辺りに雨雲がかかっていた。雲からカーテンのように伸びて見えるのは雨である。天気が悪くなる前にこちらへ移動して良かった。














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フブスグル湖の近くに沼があった。雲の切れ間からこぼれる太陽の光に輝く水草が印象的だった。














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ハトガルへ戻る途中、オランダ人の放浪者に出会った。汽車のようなドイツ製の大きな車でモンゴルを旅しているらしい。北米のインディアンの住居「ティピー」で生活している彼らは、やることが何もかもデカい。これからゴビへ向かうと言っていた。
モンゴル人の避暑地


ハトガルからチャンカイを目指して、プルゴンを走らせた。チャンカイへの山道は思ったより困難で、「これ、ホントに上れるの?」というぐらい急斜面の岩場が僕らを待っていた。辺りに回り道はないし、轍から判断しても、皆、この道を通っているようだ。

「行けるの?」

「大丈夫、大丈夫」

バットスフが遠慮がちにアクセルを踏むと、案の定、プルゴンは途中でバックしてしまった。

「あいやいや〜。難しいね」

今度は助走をつけて、アクセル全開だ。

グゥォン、グォォン、グゥォォン。
……っとっとっと。
危ない、危ない。

岩場を上りきる直前で下がってしまうところを、どうにか耐えたようだ。意味があるのか分からないが、助手席の僕も気持ち前傾姿勢でバランスをとって協力した。難所越えに成功すると、あとは普通のデコボコ道だった。

「もう、大丈夫だろう」

安心した僕らがお茶を飲みながら休憩していると、若い遊牧民が2人、遠慮がちにバットスフに話しかけてきた。「乗せてくれ」と頼んでいるようだ。バットスフは、彼らに言われたままを僕に伝えた。僕は2人に話しかけた。

「どこまで行くの?」

「チャンカイ。用があってハトガルに行っていた」

「ハトガルまでは何で来たの?」

「歩き。昨日の朝、チャンカイを出て、夕方ハトガルに着いた。たいした用じゃなかったから、すぐに終わったけど、遅くなったので昨日は街外れで寝た。それで今朝から歩いている。近くまで乗せてくれないか」

「乗せてもいいけど、僕は写真家だから、途中で写真を撮りながら行くよ」

「かまわない」

僕は2人をプルゴンに乗せた。しかし、その先は撮影するところもないまま、チャンカイが近づいてきた。山道の途中、車窓から、やや枯れたヤナギランの群落を見ていると、遊牧民の1人が言った。

「うちのゲルでは、あの花をお茶にして飲んでいるよ」

「えっ、本当に? 美味しいの?」

「味がなくて、美味しくない」

「でも、飲んでみたいね」

「いいよ、ウチにくれば飲めるよ」

「あぁ、そう。行こうかな」

頂上辺りでフブスグル湖が見えた。坂を下りると、すぐにチャンカイに着いた。

「この辺で降りるよ。ありがとう」

ツーリスト用の施設がある近辺で、2人は降りていった。「あれっ、ヤナギランのお茶は……」と思ったが、呼び戻すのも面倒なので先に行くことにした。

「この辺は外国人観光客のほかにも、金持ちのモンゴル人が避暑に来るんだ」

バットスフが言った。確かに小奇麗に整備されていて、いかにも自然の中にある“観光地”という感じだ。

あまり撮影する気にはなれなかったが、少し行ったところで湖を撮った。昨日、泊まっていたところより、湖の色はさらに透明だった。

砂利があるせいだろうか。足を突っ込むと水温は低く、30秒も湖の中に入っていられない。そこへ、馬に乗った遊牧民が近づいてきた。

「こんにちは。どこから来たの? アイラグ(馬乳酒)飲む? タラグ(ヨーグルト)もあるし、アルヒもある。タバコもあるよ」

いやに馴れ馴れしいけど、優しそうな顔をしている遊牧民だ。

「今は写真を撮っているから、後で寄るよ」

そう言っても、彼は動こうとしない。

「今日はどこに泊まるの?」

あまりしつこいので、僕らは無視してプルゴンを走らせた。空を見ると、雨雲が徐々にこちらへと近づいてきていた。

チャンカイの外れまで行くと、道はまた山の方へと続いている。このまま先に進んでも時間ばかりかかりそうだし、良い風景があるとも限らないので、ここで引き返すことにした。

ハトガルへ引き返す途中、さっきのしつこい遊牧民が僕らに気づき、慌てて馬に乗ってやって来た。

「アイラグ、飲みなよ。ここが僕らのゲルだから」

仕方がないので、少しだけ立ち寄ることにした。中には、このゲルの主人らしきオジサンと、若い兄弟が座っていた。僕は勧められるまま、アルヒやアイラグを何杯も飲んだ。

「今日、この辺にテントを張るなら、良い場所があるから案内するよ。夜にアイラグを届けるし、アルヒも飲むなら売ってあげるよ」

「そうですか。じゃぁ、案内してもらおうかな」

ほろ酔い気分の僕は好意に甘えようとしたが、バットスフはタバコをくわえて下を向いたまま、何か考えているようだった。馬に乗った遊牧民に先導され、プルゴンで後をついていくと、浮かぬ表情のバットスフが口を開いた。

「危ない。彼らは、ちょっと危ないよ。テントの場所を案内して寝込みを襲うつもりだよ。気をつけたほうがいい。酒に酔って寝たときにやってくるよ、きっと」

そう言われてみると、確かに動きが怪しい。さっきから遊牧民に会うと僕らのほうを見て何やらヒソヒソと話している。寝込みを襲う計画を立てていると考えられなくもない。

「どうする?」

「とりあえず場所だけ案内してもらって、夜にまた来るって言えばいいよ。夕日を撮影しに行くって嘘をつこう」

「そうしよう」

彼に案内された場所は、木に囲まれた湖畔の静かな場所だった。ツーリストの施設からは離れている。

「僕らは今から夕日の撮影に行って来るよ。また夜に戻るから」

プルゴンの窓を開けて、案内してくれた遊牧民に伝えた。

「なんだ、ここが気に入らないのか」

「いや、そういうわけじゃないよ。僕は写真家だから、撮影しないと仕事にならないんだ」

「ふ〜ん、そうか。何時に戻る?」

「日が沈んでからかな。それじゃ、後で」

ゆっくりとプルゴンを進ませ、彼の姿が見えなくなったところでバットスフはアクセルを全開にした。どこの国でも観光地は、やはり危険なようだ。僕が今まで旅していたモンゴルが、あまりに安全すぎたのかもしれない。

遊牧民のそういう噂は少なからず聞いていたが、出会う遊牧民すべてを信用していた僕には少しショックだった。たとえあの遊牧民がそうでなくても、今後は気をつけて接していかなければならないようだ。

僕らは気を引き締め直し、ハトガルへ戻ることにした。